2011年05月05日

木元グルーブ解体・根絶戦の死闘を死闘として貫徹し勝利しよう

革命的労働者協会学生委員会


 革労協は、二月二十日の政治集会で新たな闘いを始める決意を表明した。結集した諸同志や闘う仲間は、全国−全世界、非合法地下で闘う同志たち、闘い半ばで斃れた同志、友人たちの一切合財をひきうけるべく、政治集会で決起した。問われているのは決意表明ではなく、行動であり、思想−他者との諸関係であり、栢互批判−自己批判である。革労協学生委員会は木元グループ解体・根絶戦の勝敗をかけて、二〇二年春期闘争、新歓闘争に決起する。木元グループ戦に勝利できなくて、革マルをせん減することはできない。五同志虐殺に報復できなくて、ファシストや権力による虐殺への報複を完遂できない。とりわけ、木元こと山田茂樹、土肥、宮井ら学生委員会関連者こそ、われわれ学生委員会の標的である。〇四年の戦略的地平に学び、その的確惟・継続性・組織性に学び、戦闘をとおして戦闘を学び、戦闘に返していく。学生委員会の存在意義をかけて対木元グループ戦に突撃する。その延命を一日たりとも許してはならない。逆に、そこへの死闘戦、突撃力は、強烈な自身との思想闘争ぬきには形成されない。戦略的地平が、われわれの「本気」を労働者人民に伝えたように、敵戦闘力の損失、戦果をもぎとることによって、労働者階級の階級への形成の一翼を担う。
 階級社会がもつ一切の搾取・抑圧を許さない闘い、階級社会の属性である差別を許さない闘いを貫徹するなかで、労働者階級自身の事業としての共産主義革命に勝利する。
 自らを「断固たる部分」と称してふたたび「観念化」するのではなく、現実の労働者人民・被差別大衆の闘いと団結に学びながら、隊伍を整える。革命党内部糾弾闘争に着手した先達に学びながら、今日的にとらえ返して差別糾弾を闘う。労働者階級の階級性にこだわり、一人ひとりの同志、友人の闘いに連なり揮身の決起を自らに課す。もって<三里塚・組対法決戦>に勝利する。奪還同志とともに、全獄中同志とともに闘う。

帝国主義ブルジョア政府による震災対策−治安弾圧-戦争突撃を許すな

 革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)の四月一日号の冒頭を、本年も学生委員会が担うにあたって、特別に「東北関東大地震」という名によってもたらされている事態に、われわれプロレタリア革命派はいかなる態度で臨むのか、ここから始めなくてはならないと考える。耳目が震災に集中するなかで、同時に進んでいるリビアでの帝国主義ブルジョアどもによる戦争突撃やパレスチナでのイスラエルによる攻撃などの国際情勢にどう臨むのかということと、一つのものとしてである。
 二万人を超えるという直接の犠牲者、その後の救援の遅れ、放棄による犠牲者の拡大、原発−放射能による数十万、数百万単位の労働者人民の被災などなど、今後少なくとも数十年は強度に続く被災が想定される現在の状況のなかで、われわれはもって行き所のない怒りと、しかし、怒りをつき出してつき出して前へ前へと進もうとする衝動を抑えることができない。前へ! 被災したすべての労働者人民・被差別大衆のもとへである。前ヘ! 階級支配がもたらした災害の元凶である帝国主義ブルジョアどもの巣窟へである。前ヘ! いまだに冷たい海の中や大量のがれきの下で待っている労働者人民のもとへである。
 この闘いを、恐慌情勢下に進める。帝国主義ブルジョアどもによるリビアへの空爆を許すことができない。 「トモダチ作戦」と称して東北地方で救援活動する米帝軍の攻撃を許してはならない。ベトナムで何百万人もの労働者人民を虐殺し、枯れ葉剤でいまなお多くの人民を苦しめ、イラク、アフガンなど全世界で大量の物資を消耗しながら労働者人民虐殺を遂行しつづけている米帝軍の「救援」や「保護」がいかにうけいれがたいことか。
 日帝足下の労働者人民が、東北・関東の被災者と連帯するさいにこだわらなくてはならないのは、「救援」一般に終わらせるのではなく、支配の危機のなか、資本主義社会の危機のなか、蜂起−革命戦争からとらえ返した闘いと組織建設にたちあがることである。
 帝国主義ブルジョアどもと官僚的軍事的統治機構を担う部分は、一九一四〜一五年第一次世界大戦、一七年のロシア革命、それへの反革命介入であるシベリア出兵、その機をとらえた商人資本による買い占めに対する一八年の米騒動、それへの軍隊の出動、米騒動で子供もふくめて地域ぐるみで戦闘的に闘った部落大衆、米騒動への弾圧、そのなかで二人の部落民への死刑、この時期の共産党の建設、全国水平社結成、二三年関東大震災、そこでの朝鮮人大量虐殺と「社会主義者」虐殺、二九年世界恐慌といった革命と反革命の激突の歴史をしっかり教訓化している。支配階級の側こそが、労働者人民が暴力的に、実力で決起することをもっともよく知り、恐怖している。常備軍の建設、これがやつらの常套手段である。「保護」と称して被災者を一ヵ所に集め、生活手段を与えるも与えないも権力側次第という状況を暴力的につくっている。
 具体的には報じられていないが、自衛隊十万人派遣は、自衛隊基地の武器、警察署の武器の確保金融機関の財産確保を最優先にして配備されたであろう。一方アキヒトは皇居内奥深い核シェルターに避難しながらアレコレのたもうたであろう。ブルジョアどもはいつでも外国へ高飛びできるよう交通手段もカネも用意しているであろう。その対極に、「障害者」や「病者」の施設の安否はほとんど報道すらされなかった。宮城刑務所では、面会や発信が制限された。
 「ボランティアの受け入れ体制ができていない」と称して政府がおこなった制限は、文字どおりの被災者見殺しである。武装自衛隊が破壊された武器庫の武器や破壊された金庫の財産などを確保しないうちに、労働者人民が被災地に入るのを許すわけにはいかなかったのである。

労働者階級自身の事業としての行動委員会運動で被災者連帯を

 このような敵の攻撃をうち破るのは、労働者人民自身による組織された実力闘争である。警察・自衛隊とは緊張をもった対時、区別された闘いと団結の形成が大切である。被災地に必要な物資を生産するためにも、運ぶためにも、必要な労働を提供するためにも、労働者人民は資本の鉄鎖に縛られており、自由に生産したり、自由に救援に行くことすらできない。「一日八時間の賃労働」という鉄鎖である。この鉄鎖は、「八時間」どころか「二十四時間」をしばるものとなっている。この鉄鎖を断とう。すべての物資、労働力は、被災人民の救援と資本主義社会転覆に集中されなくてはならない。また、そういうものとして救援活動や「ボランティア」が再編されればされるほど、より大きな力が形成されるだろう。災害出兵している自衛隊員への反帝反軍工作もこのような視点から大いに推進されるべきであろう。
 逆に、このような闘いが進むほどに、園家権力はそこへの弾圧を策する。否、すでにその青写真はできあがっているであろう。「混乱に乗じて、だれそれが」というキャンペーンが、反朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)扇動や反テロキヤンペーンとともに強行される攻撃を粉砕しなくてはならない。
 国債対策、円高対策と称して日銀−日帝ブルジョアジーが多額の資金を運用しているが、このこと自体に資本主義の破産、その反人民性、危機が露骨に表現されているではないか。二万人を超える死者の怒りや無念を、被災者の苦悩を、資本主義批判のラディカルな闘いとして結実させていこう。

階級社会における「人災」としての虐殺−被害

 まずわれわれがハッキリさせなくてはならないのは、「地震による被害」と言うとき、「震災」一般、「被害」一般は存在しないということである。そこには、必ず、厳然と存在する階級社会における階級支配のアレコレが、それぞれの階級において違う内容で現われる。すなわち、支配階級にとっての「被害」と被支配階級にとっての「被害」はまったく異なる。同じ意味だが、資本家階級、ブルジョアジーにとっての「被害」と労働者階級にとっての「被害」もまったく異なる。さらに、われわれは、階級支配の属性として、すなわち、階級支配があるところに差別があることを指摘してきたが、差別社会においては、社会的構造的に差別を強制されている被差別大衆と支配階級とでは、「被害」がまったく異なる。
 支配階級にとっては、自らの支配が揺らぐこと、この一点で「被害」が語られる。資本家階級にとっては、賃労働の強制によって搾取・収奪することができなくなるという一点で「被害」が語られる。彼らは、地震であれ、津波であれ、放射能であれ、なんであれ、階級支配を貫徹するためだけにそれらを利用し、対応する。「政治休戦」とか「挙国一致」とか「がんばれ日本」とか、自衛隊や米帝軍の出動などはすべてそういう攻撃としてある。大地震直後に「天皇陛下はご無事です」というテロップがテレビで流れたように、支配の危機において、天皇・天皇制攻撃がここぞとばかりにくりだされる。このような攻撃を絶対に許してはならない。

「想定外」という デマキャンペーン

 地震そのもの、津波そのものは、まるで階級支配とは関係ないように襲ってくるが、ここが違う。日帝ブルジョアジーやその「官僚的軍事的統治機構」や御用学者どもが「想定外」という言葉を使うとき、そのときすでに「想定する」のはつねに支配階級の側であるということが許しがたい。「想定すること」自体を労働者人民は奪われる。「知らしめるべからず、よらしめるべし」という支配階級のやり口は同じである。「民」という漢字が目をつぶすことを表現していることに端的に示されるように、耳目に触れさせないのである。そして、「触れないこと」自体に慣らされるようにされるのである。それは、自分たちが支配されているということがわらないようにされているという支配のありかたである、ブルジョア社会における「自由・平等」「民主主義」という概念に表現される。
 だが現実には、日ごろから、地震そのものが実際に起きたときに、それぞれの地域のそれぞれの労働者人民にどのような被害が生じるかの具体的な考察の機会は与えられない。ブルジョア学校教育において、大量の時間がアレコレの科目において消費されるが、本当のこと、つまり自然と階級社会との関係を教わることはない。それは、資本主義社蜜が賃金奴隷制社会であることを教えないこと、「商品」や「貨幣」や「資本」といった物神を共産主義の立場から、すなわち労働者階級自身のがわから認識することをさせないことと同じである。ブルジョアマスコミで「東北関東大震災時の被害者XX万人」という見出しが出たとしても、具体的にどこでいつ何によって誰が虐殺されるのかは示されない。だが、一部の人間は、すなわち、御用学者や官僚どもは知っているのである。もちろん支配階級とブルジョアどもは、それらの情報をさまざまなルート、コネで取りこむ。
 階級社会のもとでは、知識や情報そのものが支配階級によって占有・操作されている。たとえば「一八九六年に三陸海岸は高さ三十八メートルにも及ぷ津波に襲われたことがある」という知識は、うけ継がれない。行政や学校がうけ継ぎひき継ぐ知識・情報は、資本の論理に貫かれたものでしかない。資本の論理、それは徹底した利潤の追求である。「二百年に一度の災害に備える予算は立てられない」「費用対効果」というのがブルジョア行政の言葉である。
 だがこれ自身がウソである。資本にとって、資本によって生産された商品がその消費過程で利潤を生むかどうかは関係ない。たとえば、巨大な商品である空港やダムが、生産手段の一部として消費されるとき、つまり生産財生産資本によって消費されるとき、それらは利潤確保の直接の手段となる。ダムで電気が生産されるとき、電気という商品はふたたび生産財として生産過程にはいりこんでいくか、そのまま消費財が消費される過程にはいりこんでいくかによって、その消費過程が直接労働者の搾取、すなわち剰余価値の生産に関連するかどうかが変わってくる。しかし、ダムが洪水対策、砂防対策などに供されて直接生産手段に関連しない場合、ダムを商品として売った建築資本は、その代価を行政から、国・政府や自治体などから得ることで利潤を確保する。が、そのダム自身は消費財として機能していく。ここでは、政府や自治体がその代価とするところの貨幣を労働者人民からの搾取・収奪によって確保することが問題となる。徴税は支配階級の眼目である。「法人税を上げよ」と主張する日共の主張はナンセンスである。法人が確保する利潤自体が労働者の搾取によって確保されているにすぎないのであるから。そうすると、資本がおこなうことは、結局、いかに労働者人民をあざむいて、あたかも「効果」があるように教育・盲伝するかであり、その「効果」のためには「費用」はこのぐらいが妥当という宣伝である。階級対立の非和解性の産物である国家、支配階級の共同利害態である国家が、生活に織りこまれるようにして強制されていく。
 資本のウソは、軍事予質や治安予算をめぐって、より明白である。軍需品や治安用品が商品として生産され、それをやはり政府が購入し代価を払うことによって生産資本は利潤を得る。しかし、軍隊であれ警察であれ、それらが使う軍需品、武器、弾薬の類はその消費過程で利潤を生み出すことはない。官僚的軍事的統治機構が使うすべての用品は、ペンであれノートであれ食料品であれ、同じことが言える。毎年数兆円が費やされる「防衛費」は、はたしてその「費用対効果」が成立するのか否かなどは関係ない。
 三里塚闘争を見ればすぐわかる。三里塚空港(成田空港)は、日本階級闘争の天王山となった三里塚闘争の位置に逆規定されて、敵国家権力からすれば、たとえどんな犠牲者が出ようと、たとえどれほど多額の費用がかかろうと、その完成にむけてあらゆる攻撃がかけられてきた。この場合−あえて使えば−「費用対効果」の問題は、カネの問題ではなく、階級支配の貫徹のためには、警察官が死のうが農民が死のうが空港を完成させるということであり、それ以外に支配階級には選択肢はない。三里塚闘争はそのように発展してきた。「成田を軍事空港として造ればいい」とか「戦車を持ってきたら三日でできる」と放言した政治屋・官僚どもの発言も、公共事業一般とは決定的に区別される三里塚空港建設の意味があることをよく示している。

日帝ブルジヨアジーの情報統制

 ブルジョアマスコミを通じてくり返し放映されるテレビの映像も、基本的に階級支配の道具または補完物である。突発した事態に即応できない支配階級やその「軍事的官僚的統治機構」やその末端を担うテレビ局のさまざまな部署が、思わず生の情報を流すことはありえる。具体的な例としては、一九八九年の二月二十四日に報道されたテンノー・ヒロヒトの死体を載せた車が中央道で炸裂した爆弾によってその行く手を阻まれたときのようにである。この瞬間、革命派の闘いは、敵の力を圧倒した。その戦果は、もっとも統制の深い監獄の中でもとどろいた。ほかならぬ、日帝国家権力と監獄当局は、テンノーの死への追悼を労働者人民に強制しようとして、葬儀の模様を監獄のラジオを通じて流しつづけたからである。この瞬間、労働者人民は生の情報を手にした。
 すでに「想定外」ではなかったということがブルジョアマスコミで報道されている。九七年には神戸大教授によって大規模地震による原発事故−炉心溶融、水素爆発の可能性が指摘されていた。二〇〇九年には産業技術総合研究所により大津波が想定されていたというのだ。これらの知見を帝国主義ブルジョアどもとその御用機関である原子力安全委員会が圧殺したのである。理由は「多額の費用がかかる」「政治的判断」という。利潤のためには労働者人民がどんなに大量に死のうが関係ないのだ。

死体処理をめぐる国家権力の思惑

 万単位の労働者人民の死体を土葬するのに特別な法的手段をもって「許可」が発せられるのに比して、テンノー・皇族は土葬が当たり前である。死んでなお、いや、死んでいっそうかれらは神秘化される。
 すでに政府−支配階級は、「有事」法制のなかで、自衛官の警察権・逮捕権などを認める攻撃や、緊急時に土葬−処分することを認める攻撃をしかけてきた。逮捕−拉致する権限が、帝国主義軍隊に野放図に与えられ、虐殺された労働者人民の死体は勝手に処理されるのである。まさに一九二三年の関東大震災時における大杉栄、伊藤野枝ら「社会主義者」の虐殺への道をくり返すのか否かがギリギリと問われるのである。

資本主義社会がもたらした被害の増幅・拡大

 資本主義社会がもたらした被害の増幅・拡大 資本の論理は、徹底した利潤の追求、飽くなき利潤の追求である。マルクスが緻密にスケッチしたように、資本主義は都市への集中、とりわけ労働者人民の集中を果たす。安価な労働力商品を求めて、資本は行政をフル動員しながら工場密集地と住宅密集地を形成する。ブルジョアどもの裕福な階級が暮らす地域と労働者人民の暮らす地域が区別され、隔絶される。一方に堀で囲まれた皇居が残存し、他方に差別を受ける地域が形成される。徹底した合理化、社会全体を貫く合理化攻撃が、人口の分散を許さない。田園地帯、山村での人々の生活を許さない。人口密集地への津波の襲来が、より多くの犠牲者を生み出すことになるのは間違いない。
 土地の広さには限度があり、資本主義社会においてはたちまち空間が人工的に形成される。一定の土地を購入した資本は、そこでの資本の回転率を高め利潤を拡大するために、店舖にしろ住宅にしろ、床面積を拡大する。高層建築物が現われ、地下街が造られ、海や湖沼が埋め立てられる。耐震構造とか耐震装置といった技術が駆使されるのはよいとして、そもそもそれが必要な高層建築物とは、労働者人民にとって何なのかを問わなくてはならない。
 ここでももっともわかりやすい例が、多くの労働者人民が狭いアパートに、高層アパートに、地震で液状化するような埋め立て地に建てられたアパート群に追いこまれ、それと反対にブルジョアや官僚、政治家どもは、庭付きの豪邸に住む。東京の山の手地域、大阪の帝塚山、神戸では芦屋といった高級住宅街は、高台にあり、大雨・洪水の被害とは無縁である。もちろん高級住宅といえども商品であり、人々はそれを自由に買える「権利」を有する。ブルジョア憲法は調う「居住の自由、移動の自由」を。しかし、生産手段を奪われ、自身の(家族の)再生産が可能な最低限の収入しか手に入らない労働者人民(いまやその最低限すら手に入らない労働者が拡大している)は、永遠に買えないのである。ここでも、極上の住居は皇居である。反対に、被差別部落は川にはさまれたり、川のすぐそばに追いやられ、たびたび洪水被害に襲われてきた。それどころか、差別的な治山治水事業は、被差別部落に隣接する土手を他より低くすることすらある。したがって、被害は労働者人民・被差別大衆に集中するのだ。
 「共産主義を指向する団体なので弾圧した」−これは、一九二〇年代−戦前治安維持法時代のことではない。二〇〇八年五月十三日のことである。その団体は日本共産党ではなく、革命的労働者協会・福岡県委員会である。『蟹工船』がマンガやネットで読まれる現代において、「一つの幽霊がヨーロッパにあらわれている、共産主義の幽霊が」 (『共産党宣言』マルクス・エンゲルス)のフレーズが再現されている。この渦中に、すべての学生が決起することを訴える、自らとすべての労働者人民の解放をかけて。

東日本大震災は「日本の危機」ではなく「資本主義の危機」であり「資本主義による危機」である

 ブルジョア報道によると、東日本大地震から二十四日たった四月三日段階においても、避難所で出される食事が「朝パン一個、昼なし、夕おにぎりとひじき」という状況が強いられているという。日帝ブルジョアジーと政府の政策に怒りは増すばかりである。
 支配のため、官僚的軍事的統治機構の維持のための食料・燃料・物資・情報は、軍
警察にまず集中されている。「トモダチ作戦」とかぬかして米帝軍の大部隊が被災地に展開中だが、それは放射能−核攻撃にも耐えられる重装備を確保したうえに、退路もつねに確保している。
 もちろん、支配階級であるブルジョアどもの台所と倉庫には、食料はふんだんに蓄積されている。多くの労働者人民が、なけなしの所持金を削って義援金カンパをおこなう一方で、震災直後には「円高」を見越した投機マネーが通貨市場に流れ込み円が買われた。日銀は、急激な円高を避けるためと称して、巨額の資金を市場に投入した。その額は一ヵ月で百二十兆円。G7「先進国財務省・中央銀行総裁会議」も為替相場の「安定のために」とか「市場の混乱をさけるために」と称して「協調介入」をおこなった。これらもまた、何兆円とか何億ドルとか何億ユーロとか、およそ全世界の労働者人民の日常生活とはまったくかけ離れた額である。

資本主義社会の破綻からプロレタリア共産主義革命の展望を

 「円高を見越した投機」は、震災被害の対策のために日本の企業・資本が円を確保するであろうということを見越してのことであった。この動きは、一九一七年のロシア革命に対して全世界の帝国主義ブルジョアどもが反革命介入したさいに、日帝足下で生じた米の買い占めと同じである。それに怒った富山の漁村のおっ母を先頭とした米騒動に結果した歴史的事実と重なるものである。資本とそれを運用する連中は、労働者人民の災難につけこんで私腹を肥やす。
 資本とは何か−これに答えを与えたのがマルクス主義である。資本とは、 →定の貨幣の蓄積を前提にして、生産手段が私的に所有されている社会において、その一定の貨幣額が、労働者人民に対して賃金労働をさせる強制力を絶対的に暴力的に持っているということである。そして、その強制力・暴力性が、国家とか国という概念と不可分のものとして存在している。
自称「共産主義者」の中国政府やその党官僚どもも、全世界ではびこる貨幣による労働者人民への賃労働強制を前提にしている。

階級闘争の歴史を学び、わがものとしよう

 「中世の農奴の中から初期の諸都市の特許市民が出てきた。この特許市民のなかから、ブルジョアジーの最初の分子が発展した。…大工業は世界市場をつくりだした。…近代の国家権力は、全ブルジョア階級の共同事務を処理する委員会にすぎない。…彼らの商品の安い価格は、中国の城壁をもことごとくうちくずし、…外国人嫌いをも降伏させる重砲である。ブルジョアジーはすべての民族に、滅亡したくなければブルジョアジーの生産表式を採用するように強制する」 (『共産党宣言』)。
 商品の弾丸で、その体制を変えていくのが資本主義である。この「商品」というのは、資本主義的商品である。「商品」一般が存在しないように歴史通貫的な商品は存在しない。生産手段が私的に、ブルジョア的に所有されている社会、労働者人民が賃金労働者として搾取され収奪されながらでないと労働=賃労働にありつけない社会を前提にしている。
 商品には価格がある。商品の価格とは、その商品の価値が転化したものである。価値とはその商品がその交換価値として表現するものであるが、これらの価格や価値には、必ず資本家の利潤が含まれている。すなわち、剰余価値が転化したところの利潤が含まれている。剰余価値とは、労働者がタダ働きを強いられた結果、商品が含んでいるところの価値(量)である。タダ働きを強制されるのは、生産手段が資本家とその「共同事務処理委員会」である国家権力−公共機関などによって占有されているからである。すなわち、そこで働いて、その代価として賃金をもらわないと生きていけないからである。
 われわれ共産主義者は、この構造そのものを粉砕する。「共産主義を特徴づけるものは、所有一般の廃止ではなく、ブルジョア的所有の廃止である。…この意味で共産主義者は、自分の理論を私的所有の廃止という一語に総括することができる」(同).
 すでに被災労働者人民は、資本主義の象徴たる国策資本としての電力資本への怒りを露わにしている。電力資本のもとで肥え太ったすべての資本家や官僚の財産は無条件で真っ先に没収され、被災労働者人民にわけられなくてはならない。この期に及んで「低い利子で貸し付けを」と決定した日銀(四月七日)に怒りを集中しなくてはならない。すべての労働者人民は、ブルジョアのための、ブルジョア政府のための税金を拒否し、自身の力と自身のネットワークで「共に生き共に闘う」関係を造りはじめている。利子など不要だ。
 米軍住宅、皇居や宮内庁病院は解放されなくてはならない。アキヒトやナルヒトが、自身の絶対の安金を確保しながら都内や関東の「避難所」へ「慰問」に行こうが、始まった天皇批判、天皇制批判の声を鎮圧することは不可能だ。「国内平定国外成敗」の「平成」という年号がアキヒトの労働者人民への宣言である。

二千年来の難問、「貨幣とは何か」に決着つけたマルクス主義

 「原発事故の不安」をうけて「日本売り」がブルジョア新聞で騒がれ、東証終値が一〇一五円安の八六〇五円一五銭をつけたとき、日銀は「前代未聞の」大量の資金を市場に流しつづけた。三月十五日だけで二十兆円が「公開市場操作(オペ)」としておこなわれ、二十三日までに九十二兆五千百億円となった。
 「家屋が破損した家には一律一千万円は必要」という声が上がりながら、一ヵ月近く経ってもビタ一文出ない状況なのに対して、日銀はその何万倍もの額のマネーを即刻動かす。このような、貨幣とは何なのか、という根本的な疑問と怒りから始めよう。
 二〇〇八年リーマン・ショックをうけて世界恐慌が吹き荒れるなかで、たとえばドイツの学生・高校生が『資本論』学習に走ったように、いまこそ日本の学生・労働者人民は『資本論』などマルクス主義にあたるチャンスである。
 日銀が発表した一〇年の資金循環統計(速報)では、国と地方自治体を合わせた政府部門の年末負債が千四十九兆円。前年比五・六%増で過去最高。同時に、銀行、保険会社などの金融機関の国債保有残高も五百八十七兆円で過去最高とのこと。「家計が持つ二〇一〇年末現金・預金は八百二十兆円」という。
 これらの数字から、ブルジョア経済学とブルジョアマスコミは、「国の借金を減らそう、国民一人当たり××円」というキャンペーンを張る。許しがたいデマとペテンである。
 ブルジョア政府の計画的意識的なインフレ政策で、貨幣価値は確実に下がり、本当の利子はマイナスである。その預金すらままならぬ圧倒的多くの労働者人民がいる。この預金システムへの幻想は粉砕されなくてはならない。
 銀行や保険会社は、預金者や保険契約者から直接だまし取るだけではない。国債を購入し、その配当を特別利潤などに組みいれる。その配当は結局政府が徴収する税金などからである。
 われわれは、マルクスが一八四八年の革命とその敗北をとおして資本主義の「強さの秘密」を探求しようと『経済学批判』にとりかかり『資本論』や『剰余価値学説史』にいたったことを知っている。
 「ことに商品の分析を含む節の理解は最も困難」(『資本論』)であることを隠そうとしない。 「価値形態−それの完成した姿態は貨幣形態である−は極めて無内容であり、簡単である。とはいえ、人間の精神は二千年以上このかた、これを究明しようとして果たさなかったのであるが」 (同 一八六七年第一版序文)と言うように.「果たさなかった」ことを果たした。
 「アリストテレスはまず第一に、商品の貨幣形態は、簡単な価値形態の、すなわち何か任意の他の商品による一商品の価値の表現の、さらに発展した姿態にすぎないということを明白に述べている。…彼はいう、『交換は同等性なしにはありえないが、同等性は較量可能性なしにはあり得ない』と。しかし、彼はここで立ちとどまって、価値形態のより以上の分析を断念している。…かくしてアリストテレスは、彼のより以上の分析が失敗したのは何のためであるかを、すなわち価値概念の欠如のためであることを、自らわれわれに語っている。その同等なものとは、人間労働である。…価値表現の秘密、すなわち、すべての労働が人間的労働一般であるが故の・またその限りでの・すべての労働の同等性および同等な妥当性は、人間の同等性の概念がすでに国民的成心の固定性を持つ時にのみ解明されうる。だがそれは、商品形態が労働生産物の一般的形態であり、かくしてまた、商品所有者としての人々相互の関係が支配的な社会的関係であるような、そうした一社会において初めて可能である。」(同 第一篇商品と貨幣第一章商品)。

百五十年前、マルクスは「物神崇拝」を解明しブルジョア経済学を終わらせた

 「労働生産物が商品形態をとるや否や生ずる労働生産物の謎的・神秘的性格は、どこから生ずるのか?
 明らかに、この形態そのものからである。人間の諸労働の同等性は、労働諸生産物の同等な価値対象性という物象的形態を受けとり、人間的労働力の支出の、その時間的継続による度量は、労働諸生産物の価値の大いさという形態を受けとり、最後に、生産者たちの諸労働のかの社会的諸規定がそこで実証される彼らの諸関係は、労働生産物の社会的諸関係という形態を受けとる。…商品形態は、また、それが自らをそこで表示する労働生産物の価値関係は、労働諸生産物の物理的本性、および、それから生じる物的諸関係とは、絶対に何の関わりもない。それは人々そのものの一定の諸関係に他ならぬのであって、この関係がここでは、人々の目には物と物との関係という幻影的形態をとるのである。だから、類例を見いだすためには、われわれは宗教的世界の妄想境に逃避しなければならぬ。ここでは、人間の頭脳の諸生産物が、独自の生命を与えられた・相互にかつ人々と関係を結び合った・自立的な諸姿態のように見える。商品世界では、人間の手の諸生産物がそうである。これを私は、労働生産物が諸商品として生産されるや否やそれにまといつくところの、したがってまた商品生産と不可分離であるところの、物神崇拝と名づける」 (同 第一章四節商品の物神性とその秘密)。
 百五十年ほど前にマルクスが発見−整理し、名づけたところの商品という物神、マルクスは、生産手段が資本家によって私的に所有されている社会、資本主義社会における商品について、すなわち貨幣について、すなわち資本について、その力、物神としての力を解明した。そして、貨幣が力を持つのは、ほかならぬ労働者階級という階級、自分の労働力を資本 (家)に商品として切り売りするほかは生きていくことができないような階級が存在するからにほかならないことをマルクスは訴えた。労働者に対する労働指揮権、賃金労働を強制する力が生じるのは、その労働者が生産手段から暴力的に引きはがされたからである。
 日本ではつい百数十年前、イギリスでは四百年ほど前までは、資本主義が始まる以前は、人民が生産手段から完全に隔絶されることはなかった。いまや最大にしてもっとも基礎となる生産手段である土地(海も)は、完全に私的所有によって分割所有され、田畑はもちろん山野や海川といった生活の糧を得るところはすべて、個人であれ法人であれ国や自治体であれ、何らかの所有権が設定されている。都会の労働者は住むところさえままならず、駅や公園、歩道橋や橋の下からも排除されている。多くの農民、労働者人民が国家権力によって、住み慣れた地域からたたき出されている。この過程をマルクスは「資本の原始的蓄積」と定義している。

組対法(組織犯罪対策処罰法)弾圧と攻勢的獄中闘争と共産主義革命

 このような資本主義の歴史的背景をしっかりと見てとりながら、われわれは、今回の震災に対して、根本的解決への道を歩む。「万国の労働者 団結せよ」の道を歩む。
 九十二兆円以上のマネーを六日間で動かすような日銀を頂点とするブルジョア的金融システムではなく、物であれ労働であれ、労働者人民が必要なことは労働者人民が直接やりとりできるような生産と労働、自らの意志と欲求にもとついた活動としての労働に着手する大チャンスである。
 前号では、自衛官に上官の指揮を拒否して、自らの意志で労働者人民のために奮闘することを訴えた。暴動を鎮圧するための部隊のために備蓄されている食料・燃料・車両・武器等を兵舎・駐屯地から奪取し、被災者人民に供給することが急がれる。資本家や各資本が内部留保している財源は労働者人民の名によって接収されてしかるべきである。各資本のもとにある労働者こそが、職場で行動委員会を組織し、会社自身や会社役員の全財政を掌握し、管理しなおすチャンスである。生産調整をし、労働時間を調整し、人手不足の現地に出動することも可能であろう。学生や高校生は、同盟休校をかちとったり、行動委員会を組織し、現地に向かうこともできる。
 わが解放派は、資本主義の危機においてこそ、根本的解決にむけて、革命的な方針を発し、その先頭で闘う。それは、たちまちブルジョア国家権力をして「危険思想・危険団体」として敵視される。○八年五・一三組対法弾圧は、まさに「共産主義を標榜する団体」として名指しで革労協がでっちあげられた。その攻撃をひきうけ闘いぬく。路線転換攻撃を粉砕し、破防法攻撃を粉砕し、完黙−非転向闘争を強化レ、攻勢的獄中闘争を闘い、監獄解体−国家権力打倒へ攻めのぼる。少年を先頭に獄中同志がかちとった「強制給食」という拷問との対決、消えゆく意識のなかで感じとった「このまま死んでも敗北ではない」という思想、これらの闘いと生死を獄内外でともにかちとった地平を深めうち固める。必死の獄中決起は、獄中人民の共感を形成した。だれでもができそうな闘いを組織しつつ、徳島刑務所での集団実力決起にこたえようとした。
 革命的マルクス主義と解放派は、「労働者階級自身の事業」に闘いの指針を求める。闘いを進めること、労働者人民・被差別大衆・女性の解放にとことんこだわることが肝心である。「解放」は抽象的なことではなく、一人ひとり、一つひとつ具体的実証的である。
 五・一三弾圧は、直前の三月一日にかちとられた三里塚(ナリタ)空港へのゲリラ戦に対する報復弾圧でもあった。三・一戦闘は、九九年五月四日の木元グループによる革命派本部占拠着手直前の四・二七戦闘以来の闘いであった。木元グループ根絶戦と対権力闘争という<両輪の闘い>を貫徹する解放派とプロレタリア統一戦線は、そういうものとして三・一をかちとった。革命軍は、渾身の決起をかちとり勝利した。継続的組織的にゲリラ戦闘を貫徹し、非公然軍事組織と非公然政治組織と公然領域の組織と運動と戦闘的大衆運動と差別主義・排外主義との闘いを、ひとつながらにやりきる勢力、ここへの反革命弾圧であった。恐慌突入前年の〇七年福岡出来町公園の夏まつりへのウエモトによる破壊策動と権力の介入、それを参加者全員で粉砕した団結の力を恐れての弾圧であった。〇九年二・一七弾圧直後、福岡県警と国家権力は、博多署七八号同志へのでっちあげ再弾圧をしかけたが粉砕した。この地平に権力は恐怖している。看守による頭部へのテロ、一〇年十二・一三「器物損壊」重弾圧など敵が集中する攻撃に必ずや報復する。そうして日本階級闘争の負の歴史を転換し、「公判前整理手続」攻撃を粉砕した地平で闘う。
 ブルジョア新聞報道によると、本年三月十四日には、鹿児島県湧水町(ゆすい)で町の防災行政無線から誤って「当地域にゲリラ攻撃の可能性があります。屋内に避難し、テレビ、ラジオをつけてください」という放送が流れた。町内には鹿児島刑務所があり、直線距離約六十キロメートルのところに川内(せんだい)原発がある。自衛隊と警察が定期的に「原発へのゲリラによるテロ」を想定した訓練をおこなうことは周知のことだ。

マルクス主義から学ぶ資本主義社会の回転と終止

 マルクスが資本主義社会の経済的側面から研究に乗り出したのが、一八四八年革命の敗北をうけてとすれば、『経済学批判』などで示した『資本論』プラン、マルクスの経済学批判は、国家論、国家という物神に攻めのぼった。国という物神を粉砕するのだ。でないとボナパルティズムを粉砕できないというのがマルクスの総括であろう。そして「ガンバレ ニッポン」とか「国難」キャンペーンを粉砕しよう。
 Tが生産手段の生産部門、Uが消費手段の生産部門。剰余価値率は一〇〇%、つまり、一日八時間労働がその社会の平均的賃金労働時間とすれば、その半分の四時間は、労働者の再生産に必要な生活物資を生産するための時間で、残り半分は剰余価値となっているような社会である。借金や生産部門以外の産業はすべて捨象。Wは生産された商品の価値、cは不変資本、vは可変資本、mは剰余価傾不変資本というのは、その価値がそのまま大きさを変えずに新たな生産物に転移していく資本。可変というのは、その商品、労働者が切り売りする労働力という商品が消費されつつ同時に剰余価値を対象の生産原材料や生産手段等(不変資本)に加えていく特殊な性質をもつ。
 T 600W=400c+100v+100m
 U 300W=200c+ 50v+ 50m
 この社会は単純再生産でくり返されるように、150VとTとUの資本の剰余価値分100m+50m=150mの全体の量、150v+150m=300がUで生産される消費財の価値量と等しくされている。つまり、たとえば衣服や食料などがこの社会では300W、金額にして三〇〇千億円つまり三十兆円とすると、その半分の一五〇千億円=十五兆円分を労働者が消費し、残り十五兆円を資本家が消費するという社会である。
 ここから金融資本の搾取・収奪の構造や官僚的軍事的統治機構の財政的源泉を暴露・弾劾することにあると考える。すなわち、国家財政の何たるか、国債や年金の何たるか、中央銀行の何たるかを暴露していく武器をマルクスは提供しているのである。

官僚的軍事的統治機構の財政と賛沢品の生産

 資本家だけが税をとられるとしよう。
 さらにこの単純再生産モデルのU、消費財生産部門を、生活必需品生産部門Uaと賛沢品生産部門Ubに分け、労働者階級は生活必需品のみを、賛沢品はブルジョアのみが消費する社会、その比率を、八対二、すなわち消費財のうち二割が賛沢品の生産に当てられている社会を考える。
 T 600w=400c+100v+100m
 Ua 240w=160c+ 40v+ 40m
 Ub  60w= 40c+ 10v+ 10m
ここに国家権力が税をブルジョアのみからその二割を集めるとする。150mの二割は30mである。これはブルジョア国家が、この30mの財源、三〇千億円つまり三兆円の財源を得るということである。資本家が直接私腹を肥やすための賛沢品、たとえば上等の服とか高級車とか海外旅行とかの一部が、たとえば軍隊の服や武器や出兵費用、警察や裁判官や官僚のための事務用品や設備・建物などに変わる。
 税金が労働者からも徴収される時、労働者の生活はその再生産に必要な最低限の生活費さえままならない。っまり、既婚率や出生率が下がり、労働者階級は再生産されなくなる。
この官僚的軍事的統治機構を支えるための財源とその財源が使われる道、財源貨幣が交換される商品の生産をHc部門として表式に加える。
T 600w=400c+100v+100m
 Ua 240w=160c+ 40v+ 40m
Ub 30w=10c+ 5v+ 5m
 Uc 30w=10c+ 5v+ 5m
 表式について、つぎに注目したいのは、警察官や官僚や軍隊の食料などの生活用品である。上の表式には五千万人労働者が含まれている、表式には、T、Ua、Ub、Ucの各部門で働く合計五千万人の労働者の生活が表現されている。彼らが、自らの労働力商品の価値と交換するような形で生産された商品が存在する。しかし、ブルジョアや官僚や自衛隊、警察が「働いて」生産したものは一つとしてないということである。
 全世界のプロレタリアートは、王族をなくし、資本家をなくし、労働者人民が必要なものを直接に交換する社会にむかってつき進んでいる。共生共闘である。ブルジョアが維持しようとする資本制生産様式とその国家を守ろうとする官僚や軍隊や警察をなくすのである。福岡での毎週の炊き出しが「戦士をつくる炊き出し」と言って権力から恐れられているような闘いと団結を形成しなくてはならない。

未来を語るためにも「現実の矛盾」から闘いを

 「反韓」をキャンペーンするファシスト漫画家たちの勢力は、田母神や在特会などと相互浸透−相互増幅しながら、差別−排外主義攻撃を繰り返し、今や「若い世代が老人に搾取される」と言って年金問題をかたる。
 労働者人民が、就業中であれ就職期間を終えてであれ、つまり、いわゆる現役であれ引退後であれ、必要なのは、生活のための手段であり、貨幣そのものではない。ましてや、それを「年金」とかいう名前で「積み立て」「老後に支給する」とかいうものでもない。銀行や国家や年金機構などなどがアレコレ運用して確保する貨幣表示額、単なる貨幣証票なのではない。必要なのは、使用価値そのもの、実際に食べるもの、着るもの、住むもの、
住むところ、そして介護などを含めたさまざまな労働そのものなのである。「運用益」という名のブルジョ「現ア金融が前提にしているのは、永続的なブルジョア国家権力であり、したがって永続的な労働者人民からの搾取である。銀行利子は、労働者人民の搾取が源泉である。株や債権もすべて労働者人民の搾取が源泉である。
 岩手県石巻では、一千二百億円を投じて三十年を費やし二〇〇八年に完成した津波防波堤が、今回突破された。しかし、それがなければもっと大きな被害が出たであろう。問題は、たった一千二百億円しか投じられなかったということである。イージス艦一隻分にもたりない。堤防という一つの大きな商品を売った建設資本は、大きな利潤を得たであろう。大量のカネ、したがって大量の資材と生産設備と労働力が、ブルジョア社会の防衛のために浪費されている。しかも、労働者人民が搾取されながら。今回の震災はこの鉄鎖を断つ絶好の機会になる。

自由な時間、自由な労働、解雇と失業問題

「価値表現の秘密、すなわち、すべての労働が人間的労働一般であるが故の・またその限りでの・すべての労働の同等性および同等な妥当性」 (『資本論』)が解明された。「商品形態は、また、それが自らをそこで表示する労働生産物の価値関係は、労働諸生産物の物理的本性、および、それから生じる物的諸関係とは、絶対に何の関わりもない。それは人々そのものの一定の諸関係に他ならぬのであって、この関係がここでは、人々の目には物と物との関係という幻影的形態をとるのである」 (同)。
 先の表式は、価値概念を説明するものである。したがって、一日八時間の賃金労働が強制されている資本主義社会では、搾取率=剰余価値率が一〇〇%だとすると、四時間は剰余価値のための賃労働となる。
 利潤率とは、先の表式で言うと、前貸し資本=四〇〇c+一〇〇V=五〇〇に対して、利潤一〇〇mが計算され二〇%。
 加えて許しがたいことに、資本は、資本家は借金の利子払いや役員報酬を「利潤」から差し引き、果ては「寄付金」を税金対策に支出する。すべて源泉は労働者からの搾取である。
 資本主義社会をとことん労働者階級の立場にたって分析すると、いろいろなことがわかる。
 資本は利潤の拡大のために合理化=人減らしに走る。資本の有機的構成、すなわち、資本に占める不変資本部分、機械や原材料に表現される部分の比率が増える。機械化や技術革新がそのように働く。オートメーション、省エネ、ジャスト・イン・タイムなどなど。原子力も合理化・効率化の最たるものである。
 これは社会全体としては、労働者の首切りとして現れる。資本家や支配階級が存在せず、社会全体で、労働者全体で、その社会で必要な労働を割り振れば、それだけ一人ひとりの自由な時間は増えるのだが、資本主義社会はそれを許さない。資本家はあくまでも自己の個別資本への従属を強制するべく、そしてその労働者が必要な再生産費に相当する時間以上を働かせるために、つまり、ただ働きを強制するために、その個別資本にとって不要な労働者の首を切る。
この構造と矛盾が、今回の震災でかえって赤裸々となった。資本主義のむき出しの姿が現れた。ここを撃とう。
 「この生産手段と交通手段との発展のある段階で、封建社会が生産し交換をおこなっていた関係、農業と工業との封建的組織、一言で言えば、封建的所有関係は、すでに発展した生産力にもはや適合しなくなった。それらは生産を促進しないで、かえってこれをさまたげた。それらはすべて姪桔となった。それらは爆破されなければならなかった。そして爆破された。…現在われわれの目の前に、これに似た運動が進行している。ブルジョア的生産関係と交通関係、ブルジョア的所有関係すなわちこのように強大な生産手段と交通手段とを魔法で呼び出した近代ブルジョア社会は、自分がよびだした地下の魔物を、もはや統御しきれなくなった魔法使いに似ている。…恐慌期には、これまでのどの時代の目にも不条理と思われたであろうような社会的疫病−すなわち過剰生産の疫病が、発生する」 (『共産党宣言』)。
 軍需産業に象徴される資本家のための生産物とその生産労働への従事を、震災復興のための生産に集中するとき、労働者人民はより巨大でより自由な共同を手に入れるであろう。三・二七三里塚現地闘争では、反対同盟は自ら「第三誘導路建設のための重機を震災復興に使え」とか「空港防護フェンスを外して被災地に持って行け」と訴えた。労働者人民の当然の欲求がつきだされた。

治安弾圧と反革命戦争とファシズムへの突撃

  われわれ解放派は、一九一七年のロシア革命を画期とした労働者階級自身の事業に対する、帝国主義ブルジョアどもの攻撃を見てとり、 <反革命戦争とファシズムの危機を蜂起⊥革命戦争に転化し、プロレタリア・コミューン権力、プロレタリア・ソビエト権力を樹立せよ>という戦略スローガンをかかげた。
 リビアへの帝国主義どもの反革命同盟軍−NATOによる攻撃では、日々労働者人民が虐殺されている。そして、イスラエル・シオニズムがくり返すパレスチナ人民虐殺を放置−容認−推進する。
 国際階級闘争のもう一つの焦点である朝鮮情勢は、中東情勢を受けてますます煮つまつている。沖縄−普天間基地をめぐる日米帝国主義の強姿勢も、この朝鮮情勢に身構えてのことである。全世界の労働者人民の闘いに連帯し、日帝国家権力打倒へ進撃しよう。
 そのような情勢のなかで、あれこれの小ブル層、中間層、官僚的軍事的統治機構を担う部分が、プロレタリア革命に反対する一点で密集する。生産手段の私的所有を維持するという一点のために、反共産主義の一点で密集し、彼らは、全有産階級の統治形態であるファシズムに向かう。したがって、プロレタリア革命派は、プロレタリアートの階級的独立にこだわり、組織と闘いを維持しなくてはならない。とりわけ、武器は最後まで手放してはならない。
 帝国主義ブルジョアジーの国家権力を打倒し、革命に勝利すべく、生産現場・学園でのスト、街頭での大衆行動・デモ、帝国主義軍と互角に戦いうる本格的軍事を軸とした権力闘争を貫徹していかなくてはならない。非合法・非公然領域を頑強に堅持しよう。

教育のファッショ的再編

 世界恐慌をうけて、ブルジョア教育は破産をきわめている。端的に学生は卒業しても就職先が見つからない状況が続いている。「ゆとり教育」も破産した。
 学生が卒業しても就職できないような社会は、支配者からするとまさに支配の危機である。支配階級はますます天皇・天皇制攻撃を強め、国家主義を煽る。「日の丸・君が代」強制と反対運動を担う教育労働者への弾圧が強まっている。さらに支配階級は、差別主義・排外主義を強めて、労働者人民を分断しようとする。教科書攻撃は、沖縄での皇軍による集団虐殺、南京虐殺、「従軍慰安婦」問題などをめぐり、居直りが激化している。加えて、(朝鮮)東海の独島(ドクト 日帝呼称「竹島」)や釣魚台(チャオユイタイ日帝呼称「尖閣諸島」)をめぐって露骨な国家主義が宣伝されている。
 大学の序列化は、少子化のなか極限状態となり、倒産する私大資本が統出している。それは同時に、国家権力−文部科学省の統制の強化であり、恐慌時の産学協同路線は、官も交えて、私企業がしぶる研究・開発費を大学が肩代わりする形でますます一体化して貫徹されている。学生の就職難は、その中退者や高卒・高校中退者にとって、より厳しい状況を意味する。
 今回の地震−津波−原発災害が、多くの大学卒の技術者・学者・研究者・官僚・政治家の合同責任であるのを見るとき、学生運動が労働者人民の側につくのか、資本・資本家の側につくのかがきわめて重要である。
 「『障害者』は生まれながらの失業者」「『障害者』も実は労働者」主張する「障害者 の生を抹殺しようとしたのが○八年五・一三で組対法弾圧である。その解放にむけた闘い、労働者階級の一翼として一つの階級へと形成されようとする闘いに弾圧がかけられた。その傍聴闘争に対する「車イス二台制限」規制である。

木元グループ根絶−共産主義論の深化のために

 一九八五年春に木元こと山田茂樹が書いた「共産主義論=普遍的人間解放論」。
 山田「普遍的人間解放論」は、木元グループ綱領として反革命的に骨化・復権し、高橋の追悼文(『崩壊』)には、およそ解放派が批判対決してきた「人類前史」とか「本史」とか「普遍的人間解放」とかいう言葉が踊る。いまや木元グループは、それがいかにマルクス主義や解放派とは異質なものか、そして、黒田寛一の「プロレタリア的人間」と同質のものかがわからなくなっている。
 「共産主義者の理論的命題は、あれこれのなんでも改良屋の発明または発見した理念だの原理だのにもとづくものではけっしてない」 (『共産党宣言』 一八四八年)という教えに何度もたち返るべきであろう。長田同志、「築港のあべちゃん」森田同志、柿沼同志、仲野、矢野の両労働者同志虐殺の報復を貫徹する。

二〇一一年春の決意

 昨年われわれは、以下のように述べた。 「革労協は、社会主義青年同盟・解放派が、一九六一年に歴史的に復権させた『労働者階級解放の事業は労働者階級自身の事業である』 (『国際労働者協会』)という地平をひきつごうとし、その名を自らに冠することで自らが何者たろうとするのかを律したのであった。解放派の歴史を、その栄光と限界も両方をひきうけ総括−前進していくものとして、『社会党・社青同解放派』という但し書きをはずさない」と。
 マルクスは教えた。「共産主義者は、…全プロレタリアートの利害と別個の利害をなにももっていない。彼らは、特殊な原則をうちたてて、プロレタリア運動をその型にはめこもうとするものではない。…共産主義者の当面の目的は、…プロレタリアートの階級への形成、ブルジョアジーの支配の転覆、プロレタリアートによる政治権力の獲得である。共産主義の理論的命題は、…ただ、現存する階級闘争の、つまりわれわれの目前で現におこなわれている歴史的運動の、事実上の諸関係を、一般的に表現したものにぽかならない」(『共産党宣言』)。
 すべての学友諸君、新入生諸君。新たな出発にあたって、自身のゆずれぬものを見つめ直し、労働者階級自身の事業への革命的合流を訴える。マルクスが訴え、狭山−部落解放運動が訴える「一人は万人のために、万人は一人のために」闘おう。革命的反戦闘争を闘い、<三里塚・組対法決戦>にたちあがろう。

(「解放」978−979号 【基調】)


posted by 三千光年 at 19:17| Comment(1) | 基調 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
権力との死闘戦を真面目に真剣に戦う中で、おのずから木元派との戦いの結末は見えてくるでしょう。現実は革マルとの戦いも止めているのですから、文章上も権力との戦いに集中してほしいですね。世の中からもっともっと見放されてしまうのがわからないのでしょうか?木元派を殺して喜ぶのは公安ぐらいなものです。しかし幸いに両派ともそんな力は残っていないでしょう。権力との戦いを推し進めていく中で、他党派を凌駕していってください。がんばれ青ヘル!!
Posted by 青ヘルがんばれ at 2011年05月06日 07:57
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